金校軽音時代、最初はMG5だった
金校軽音時代、最初はMG5だった

MG4物語  by MURAMATSU

 

第一章 MG・5(ファイブ)?誕生

 私たちの出会いは、市立金澤高校1年のときでした。
中学の時に金高の文化祭を見に行き、そこでラブリーメンを見た川上が、金高に進学し、どうしても自分もバンドをやりたいと軽音楽同好会(軽音)に入り、メンバー探しを始めました。
 その頃の私はといえば、中2のときに横浜に転居して来たばかりで、右も左もわからず、担任の先生の言い成りで金高に入学したはいいものの友達も少なく、なんとなくぼんやりと毎日を過ごしていました。

 バンド結成を夢見る川上は、軽音に入会したはいいものの、そこには、まだ新入生は、ほとんど居らず、しかたなく友人の情報をたよりに、兎に角、ギターの弾ける奴ということで、ある日突然、私のところに、やってきたのです。
そして、いきなり「村松、お前、ギター弾けるよね。一緒にやらないか?」と切り出したのでした。えっ、何んだ?こいつ・・・
友達でもないのに?しかも、自己紹介もなしで・・・お前なんか知らねえよ。」・・・と心の中で思いつつも何故かここからは、すべて川上ペースで事が、進み気が付くと、私も軽音に入会させられていたのでした。とは言うものの私は、入学式直後に行われた新入生歓迎会で部活勧誘活動として行われた軽音の先輩であるBBQのステージを見て感激し、自分もこんな風に歌ってみたいなと思っていたのでこの成り行きに不自然さを感じることは、ありませんでした。
 そして、後日、この川上があのBBQの川上さんの弟であることを知ったのでした。

 軽音には、もう一人S君という、私とも、川上ともクラスの違う男子がいて、とりあえず3人でバンドを組むことになり川上の提案でブラフォーの「ターン・アラウンド」と言う曲を最初に練習することになりました。
 練習が進むにつれてバンドとしては、どうしてもベースが、ほしいということになり、川上が、また本領を発揮するのです。
ベースはおろか、ギターすら触ったこともないのに「ブラバンで、サックスを吹いているから大丈夫だよ」と、訳の分からない理屈でクラスメイトの飯鉢を半ば強引に連れてきたのでした。

 飯鉢本人も半信半疑の状態で兎に角ベースを持たされ、見よう見まねで、♪ド・シ・ド・シ♪と、音をさがしながら弾き始め形だけは、
BBQと同じになりました。

 飯鉢は地元、金澤中学の出身で、温和な性格と豊かな感受性で多くの友達から好かれておりクラスの人気者でした。・・・が、残念ながら
いわゆるイケメンで、女の子にモテる・・?と、いうタイプではありませんでした。

 当時の軽音の練習場所は、視聴覚室という音楽室でコーラス部と曜日別で使用日が決められており、いくつかのバンドが一緒に練習しているため他のバンドの音が邪魔になったり、ベースも持ち回りだったりで、なかなか思うように練習が、できませんでした。
 そこで、私たちは、軽音の練習日以外の日に、自分たちのクラスの空いている教室で練習をすることにしたのでした。
そうすることでベースも気兼ねなく使え、練習もスムーズに行うことができるようになったのですが、そのことが後に斉藤と出会うきっ
かけとなったのでした。
 斉藤は、バンドメンバーのS君と同じクラスで、毎日、サッカー部でもないのに放課後、友達とサッカーに明け暮れていました。
私たちは、S君のクラスが放課後よく空いていたのでそこでよく練習していたのですが、そこにサッカーを終えた斉藤が汗まみれで教室に戻ってきては、我々の練習を興味深げに聞いていたり、時には、いっしょに口ずさんだりしていたのでした。
 斉藤は、ブラバンでトロンボーンを吹いている関係で、飯鉢とは顔見知り、川上とも地元の学習塾で知らない仲ではなく、S君とは同じクラス、私だけが、こいつは何者だと斉藤を見ていたのでした。

 そうこうしている内に、ある日、斉藤は、ついに自分のギターを持ってきて練習している我々の曲を一緒に弾いたり、歌ったりし始めたのです。
そして、気が付くと練習の時には、いつも斉藤がいて、いつの間にか、斉藤は、バンドに入り込んでいたのでした。
5人になった私たちは、そのまま、練習を重ね、その年の文化祭での初ステージに備え、バンド名を決めることになり、当時、流行っていた男性用整髪料の名前をそのままいただき、安易に「MG5」と名づけてしまったのでした。    
 

4になったMG
4になったMG

第二章 MG・5からMG・4へ

  文化祭が、終わるころには、レパートリーも徐々に増えて、バンド活動が、とても楽しく、練習にも熱が入り、私としては、学業よりも、バンドをするために学校に行くという感覚で日々を送っておりました。
軽音には、定期発表会のような、催しがあり、それに出るために、更に練習、家に帰れば、練習曲のレコードコピーに、没頭・・・と、とても充実した毎日を過ごしていたのでした。

  ところが、そんな中で、メンバーの一人であるS君が練習に来ない日が増えてきたのでした。
主に練習は、4人でやり、本番のステージは、5人でということがつづき、4人の内心は何か釈然としない日々が続いたのでした。

第1章ではS君についての記述がありませんでしたが、S君は、もともとフォークソングよりも、ロックをやりたかったらしいのですが、金高では、エレキが、禁止されていたため、仕方なく軽音に入ったということが、後に判ったのでした。そんなこんなで、MG・5としての5人の1年間が終わろうとしていました。
先輩で3年生だったBBQが卒業して行き、2年生になろうとしていた私たちに、思いもよらぬ話が舞い込んで来たのです。

 それは、私がBBQを見て、感激した例の新入生歓迎会のステージでした。
通常は、主に新3年生が、そのステージを勤めるのが慣わしなのですが、その年は、2年生の我々にも演奏する機会が与えられたのでした。

急な話で、日にちもせまっていたので、練習も放課後だけでは間に合わず早朝練習をすることになりました。もちろん5人揃っての練習でしたが、それまでの1・2ヶ月間は、ほとんど4人だけで練習していたため、5人での練習には何となく違和感を感じずにはいられませんでしたが、そのままとうとう当日を向かえ、最後の早朝練習も5人で終え、午後に予定されていた新入生歓迎会を前に午前中の授業にとそれぞれがクラスに戻ったのでした。

そして、そのとき事件は起こったのです。

 S君と同じクラスの斉藤が、授業の合間にS君に「やる気がないなら、やめたら?」と一言!
S君「うん、解かった、やめるよ。」 午後の新入生歓迎会のステージ、晴れて、4人で勤めさせていただきました。
その日から、MG・4として、新たな日々が、まったのです。

  話は少し戻るのですが、前にも触れたように、自分たちの教室を使った練習が多かったせいか、先輩の指導には、
あまり縁がなく、あこがれのBBQとも、顔を会わせたことがほとんどありませんでした。
そんな中でも、1度だけですが、こんなことがありました。それは、珍しく視聴覚室で我々が練習している時でした。
突然、BBQの松田さんが、入って来たのです。その時、我々はBBQが歌っていた「ブランディー・ワイン・ブルース」を練習していたのですが、なかなか上手くできないでいたのです。

すると松田さんは、我々の所に寄って来て、「歌ってごらん?」というと、我々の一人ひとりにBBQが歌っているそれぞれのパートを教えてくれたのです。
目から鱗の出来事でした。 それ以来「ブランディー・ワイン・ブルース」は、我々の十八番になりました。

 また、これは2年生の時だったと思いますが、これも視聴覚室で練習している時でしたが、予告なしにラブリーメンの小林さんと高木さん、それとハマフォークのスタッフで活躍していた畑さん(すいません。漢字が、違っているかも?)が入ってこられて、高木さんと畑さんは、2人で遊んでおられましたが、小林さんが、我々にギターの指導をして下さいました。

その時、斉藤にカット奏法を嫌というほど、教えこんでいたのが、すごく印象に残っています。
 後に斉藤はカットの斉藤と言われるほどのカットの名手になりました。

 そんなこんなで徐々にバンドらしくなってきた2年生の秋に、いよいよ「ハマ・フォーク・ジャンボリー」の門をたたく
ことになるのでした。・・・・・・つづく

第三章 HFJバンド・オーディションへ

 

 MG・5として1年間を過ごし、4人なってからすぐにステージに上がらなければならなかった為、新しいバンド名を考える時間がなく、しかたなくMG・4と名乗ることになってしまい、なんとも中途半端なバンド名に本人たちも釈然としないながらも、後日、MGを頭文字とするために、MはMinor GはGuysとし、Minor Guys4、略してMG・4と、無理やり、こじつけました。

ちなみにMinorには、少数派、下のほう、末っ子 等の意味があり、我々は4人とも末っ子なのです。

Guysは、男たち、奴ら、とか言う意味で、「タフガイ」とか 「ナイスガイ」とかいうふうに使われる言葉だそうです。

そのうち、整髪料のMG5のほうも「バイタリス」や「マン ダム」など他の商品に押されて、目立たない存在となり、MG・4というバンド名にも違和感が、うすれていき、逆にこのバンド名が好きになっていったのでした。

 軽音には男子のバンドが少なく、ひとつ上の先輩の高橋さん(ハマフォークではスタッフとして活動、後に闇ガラスとしてバンドとしても活動)率いるバンドと、後に稲見 と茶のみ友達を結成することになる、左ききギターリストの金井君と、キャンティーワインのみっちゃんのお兄さんで 時松君達の「ボス&マリオネッツ」(ハマフォークにも何回か出てるはず)くらいしかなく、特に「ボス&マリオネッツ」 はMG・4と同じ4人編成で主に「トラベラル・スリー」のコピーをしており、当時は、良きライバルとして、共に活動 しておりましたが、「ボス・マリ」は、いつの間にかいなくなってしまいました。

 先に金高を卒業した尊敬すべき 先輩である、BBQは、すでにハマフォークに所属しており、我々はその演奏を聴くために、はじめてハマフォーク のコンサートを見に出かけたのでした。

正確には、覚えておりませんが、今、ハマフォークの年表で見てみると、それは、たぶん第9回ハマフォークコンサートであったと思われます。

 目的のBBQは勿論、リバティーン・フォーク4、ラブリーメン、フォーク・ストリングス、カブ・ベアース、それとグリーン・フィールズのお姉様方と、出てくるバンド がどれもこれも、素晴らしく上手く、格好良く、自分達など足元にも及ばないと、物凄い衝撃に、打ちのめされたのでした。

 中でもその日、私が一番、印象に残った曲は、リバティーン・フォーク4の「花はどこへ行った」でした。

当時、モダンフォークのコピーバンドの殆んどは、一般にはあまり知られていない曲の中から、いい曲を探して来ては、演奏し、その良さをアピールするというようなスタイルが多く、広く世間に知られている曲は、遊びで演奏する程度で、積極的にレパートリーとして披露しているバンドはあまりありませんでした。

 それは、以前、山添さんが、この掲示板で、広く一般に知られている曲だと演奏の出来、不出来が聞いているお客さんにすぐ判ってしまうので、やりづらいんだ。知られていない曲であれば、多少トチってもそれがバレないから安心なんだ。と本質を突いておられましたが、まさに、その通りで、どこのバンドにも思い当たるフシがあるのではと思います。

「花はどこへ行った」はそんな曲の代表的な曲のひとつで、どこのバンドもステージでは、やりたがらないはずのところを 敢えてリバティーンは、そのタブーを破って、見事なまでに歌いきり、私の心を打ち抜いたのでした。

もちろん尊敬するBBQのステージも素晴らしかったことは、言うまでもなかったことをつけ加えさせていただきます。

それまで殆ど「井の中の蛙」状態だった私たちに、ハマフォークコンサートへの出演という大きな目標ができた瞬間でした。

 MG・4としての校内での活動はすこぶる順調で、レパートリーも徐々に増えていきました。ちなみにその当 時、歌っていた曲は

「グリーンバックダラー」「冷たい風」「ティファナ監獄」(キングストン)、「シェナンドー」「朝日の あたる家」「ブランディーワインブルース」(ブラフォー)、「ヨルダン川」(MFQ)などだったかと、かすかに記憶しています。

そして、軽音の最大イベントとなる、2年目の文化祭も無事に終えてホッとしているところに「ハマフォーク」の バンド・オーディションを受けてみないか?という話が舞い込んできたのです。

「ハマフォーク」には、ラブリーメン、 BBQと金高のOBバンドが在籍していた関係で後輩たちにとっては、情報が入手しやい環境が整っており、当時、若いバンドを求めていたという「ハマフォーク」の事情を踏まえたうえで、先輩たちが、我々、MG・4を推薦 してくれていたのでした。何はともあれ、念願の「ハマフォーク」への大きなチャンスを逃す手はないとオーディ ション挑戦を即決したのでした。

 その日から、オーディションに向けての猛練習が始まりました。曲は2曲。 「グリーンバックダラー」と「ヨルダン川」に絞り、この2曲を徹底的に練習しました。「ヨルダン川」といえば「MFQ」ですが、当時のハマフォークには「MFQ」のコピーをしているバンドはなかったように記憶しています。無謀といえば、無謀な選曲でしたが、勢いのまま、オーディションにぶつかっていったのです。

いよいよその日が やってきました。希望に胸を膨らませつつも、よぎる不安を振り払いながら、指定された場所、紅葉坂・青少年会館の音楽室に到着しました。そこには、当時の会長、尾山さんをはじめ、久次米さん、小林さん、飛山さん BBQの皆さんほか、コンサートで見たバンドの方々が居り、ニコニコ顔で談笑されておりましたが、そこに会長の尾山さんのひと言、「さあ、皆さん、そろそろ、始めましょうか?」 それまでの談笑がピタっと止まり、皆さんが席に 着かれ、一瞬の静けさが、いよいよ オーディションの始まりです。 ・・・・つづく

第四章 ハマジャン・デビュー

オーディションといえば、いくつかのバンドが優劣に凌ぎを削る勝負の場だと思っていたのですが、
バンドは、どこをさがしても我々だけ。指定された席にすわってそのときを待つも、始まったのは、
ミーティング、多分、音楽に関する話なんでしょうが、皆さん、何か難しいそうな顔をして話し合っておられました。

しかも、延々と裕に1時間は、越えていたと思われる程の時間が経過するも、オーディションの気配は全くなし。
ジッとして話を聞いていた私に眠気が襲って来始めた頃、皆さんの顔に笑みがもどり、どうやら、話し合いが、収まりかけてきたな、というところで、尾山さんが、「今日は、ひとつバンドが来ているので、皆さん聞いてみてください。」と我々を紹介し、「じゃあ、どうぞ、お願いします。」ってな感じで、その場が突然、オーディション会場と化したのでした。

1時間以上もずっと、黙って緊張状態でおり、しかも楽器もまだ、ケースの中、チューニングもそこそこに、リハーサルもなしという悪条件の中で、なんとか2曲歌いましたが、当然、満足のいく演奏には、程遠いものでしたが、皆さんの評価は、「元気があって、迫力があっていいね。」と、かなり、好意的に見てくださり、頑張るようにと励ましてくださいましたが、はっきりとした結果は、その日には告げられず、連絡を待つよう、言われ、オーディションはほんの10分程で終わったのでした。

不本意な状態のまま、学校にもどり、不合格の連絡を待つ受験生のような気分で過ごす日々がつづき練習にも、力が入らずにいたところに、オーディションの結果が届いたのでした。
それは、合格、不合格という単純な知らせではなく、何と、その年の12月に予定されていた第12回ハマフォークコンサートに新人バンドとして出演して欲しいというものでした。

 「やった~」 不合格とばかり思っていた私には、まさに青天のへきれきでした。本当かな?何かの間違えじゃ?
色んな想いが心の中に渦巻くも、胸の高鳴りをおさえられずに、心はうきうき、顔はニコニコと締りのない自分がそこに居るのでした。その後、ミーティングに呼ばれ具体的な指示が、会場は紅葉坂・教育会館、日時は12月12日、曲は2曲New Faceとしての初出演ということになりました。
晴れて、ハマフォークジャンボリーの一員となった私たちにもうひとつ、大きなプレゼントが、ありました。
それは、鮮やかな黄色の生地の左胸のところにHAMA FOLK JAMBOEEのロゴと例のバンジョーボーイが印刷されたトレーナーでした。それまでも、ハマジャンに入会できた喜びは充分感じていましたが、現実にこうして形のある物を手にすることでその喜びがより確かなものとなっていくのでした。何はともあれ、コンサートまであと1ヶ月あまり、演奏予定の2曲は、オーディション(?)で歌った「グリーンバックダラー」と「ヨルダン川」なので、歌い込むのみの練習ですみましたが、
問題は、トレーナーと一緒に渡された、100枚の入場券でした。
そうなんです。ハマジャン入会、コンサート出演ということになれば、当然、チケットの販売という現実も付いてくるのです。

単純に割り当てれば、一人25枚、ノルマではないですが、売れませんでしたと返却する勇気は、ありませんでした。
どうしよう?何とか売らなきゃと内心ドキドキものでした。

ところが、学校ではすでに、MG4がハマジャンに出るという噂が広まっており、俺も、私も、と次から次と友達のほうから、チケットを求めてやってくるのでした。あっという間に100枚完売。買ってくれた友達の顔が、一瞬、まるで天使のようにみえたのでした。

練習、チケットの販売、とやることをすべて終え、いよいよ念願のハマフォークコンサートの当日を迎えるのでした。
衣装はもちろん、例のトレーナー、下は黒の学生ズボンという清楚なスタイル、いよいよ出番です。あっという間に記念すべきデビューステージは終わったのでした。・・・・・えっ内容は、どうだったって?・・・・・申し訳ありません。
実は全然、覚えてないんです。 お詫びに当日の写真、添付します。
                                   ……つづく


第五章 バンジョー導入 

 

念願のハマフォークコンサート出演という夢を叶えて、迎えたクリスマスや正月も特筆するような出来事はなく3学期が始まり、出演が決まっていた4月の第13回HFJコンサートに向けての練習が、はじまりました。
我々の楽器編成はギター3本にベースだったので、「ブランディーワインブルース」や「ヨルダン川」など、本来入っているバンジョーのパートもギターでやっていたのでした。

金高では、歴代のバンドでバンジョーを使用しているバンドはなくバンジョーの入る曲でもギターで演奏することに何の疑問も持たずにやってきましたが、ハマフォークでは、「リバティーン」をはじめ、本格派は、何処もちゃんとバンジョーが備わっており、より本物に近いコピーを可能にしているのでした。

これから先の自分たちを考えた時、バンジョーは必要不可欠という結論に達した私は一大決心をし、正月に貰ったお年玉を手に当時、伊勢佐木町にあったハマ楽器に走ったのでした。ハマ楽器には、バンジョーが3本展示してあり、1本は、ブルーグラス用のショートネック、あとの2本は、ピアレスのロングネックで底板のついているものとついてないのが、1本づつありました。底板付が12,000円、底板なしが10,000円でした。迷わず底板なしを選択。
これください。大枚10,000円を支払い、意気揚々と家に持って帰ったのでした。
余談ですが、当時、10,000円といえば、かなりの大金で高校生が普段、持ち歩くようなお金ではなく、実際、お年玉だけでは足りなくて少し母親に足してもらっていたというのが現実でした。

こうして、バンジョーを手に入れはしたものの、そうなんです。全然、弾き方が解からないのです。
とりあえず、教則本を手に入れ、まずはチューニング、ロングネックなので3フレット目にカポをして、そしてコードの確認弾いてみると、おお、バンジョーの音だ! 当たり前ですよね、バンジョーなんだから。
でも、その当たり前がうれしいんですよ。すぐに「ブランディーワインブルース」のバンジョーのリードをコピーして弾いてみると、これまた、おお、「ブラフォー」と同じだ!・・・・。同じ訳ないだろう。
実際、同じではないのですが、この時の新鮮な喜びは、40年後の今でもハッキリと記憶に残っているほどでした。

バンジョーのチューニングは2.3.4弦はギターと同じで、1弦は1度低いD、5弦は高いほうのGなので、5弦を弾かないようにすれば、ギターのコードで1弦だけを1音高いフレットを押さえることで、割と簡単にコードをマスターすることは可能なんす。そんな訳で我がMG・4にもバンジョーが加わり、雰囲気だけは、それらしくなるのでした。
しかし、奏法は、ギターのそれと一緒で、5弦は弾かない、いわゆる、音だけバンジョーといった感じでした。
それでも、バンジョーがあるとなしでは、雲泥の差があり、それなりの満足感があったことは確かでした。
金高初のバンジョーを持つバンドとして、また、HFJコンサートに出演できるバンドということで、学校でのMG・4の存在は、確固たるものとなっていったのでした。って自分で言ってりゃ世話ねえか?

そんな自己流バンジョーで満足していたある日、ハマフォークの集まりに顔を出した時、突然、私に試練がやってきたのでした。何か上層部の方々がひそひそと話をしていて、それが終わると何故か、山添さんが私のところに来て、「村松君、君、バンジョーやってるよね、次のコンサートで企画している曲があるんだけど、バンジョー弾いてもらえないかな?」と言ってきたのでした。

「えっ、無理ですよ。」「だって、自己流だから、レコード通りには、弾けないですよ。」とお断りすると、「いや、簡単なやつだから、教えるから後日、バンジョーを持って、来なさい。」と言われ、しかたなく約束の日に、当時よく使っていたハマ楽器の2階のレッスン室に行ったのです。

そこには、ニコニコと優しい笑顔の山添さんが待っておられて、「やあ、よくきてくれたね。」と迎えてくれたのですが、ハマフォークでは、金高の先輩である、BBQとラブリーぐらいとしか、まともに口をきいたことがない私が、この狭いレッスン室であの「リバティーン」の山添さんと2人きりで居る緊張感は、半端ではありませんでした。
山添さんも自身のバンジョーを取り出し、チューニング後、軽やかに、タンタカタカタカタカと弾き始めました。
「これは、スリーフィンガー奏法といって、バンジョーの最も基本的な奏法だよ。」「それから・・・・・・。」といろいろな奏法を丁寧に教えて下さったのです。
はじめて5弦をまともにチューニングして、教わった通りに指を動かすと私のバンジョーもそれなりに本来のバンジョーの音色で鳴り始めたのでした。
ついさっきまでの緊張感も忘れるほどに私は、山添さんとのマンツーマンレッスンに夢中で取り組んでいたのでした。
それは、時間にして1時間にも満たないくらいだったと思うんですが、その短時間のレッスンがその後のMG・4に与えたものは、計り知れない程、大きなものだったのです。
もちろん私は、その日から連日、バンジョーの練習に明け暮れることになったのは、いうまでもないことでした。
MG・4のなんっちゃってバンジョーが本来のバンジョーとなった時には、我々はすでに3年生になっていたのです。
高3と言えば受験です。部活もそこそこにして、勉強中心の生活に切り替えていかなければならないのですが、今、また一段とMG・4が楽しくなってきてしまい、そこそこにする気にはなれず、なんとか続けて行くことにしました。
3年生なってまもなく、ある日、先輩から、ラジオ出演の話があるけど、出てみないという誘いがあったのです。
勿論、 2つ返事でOKしました。それは、当時、文化放送でやっていた、今はなき、土居まさるがDJを務める、「セイ・ヤング」 という公開放送の番組でした。番組の中にアマチュアバンド紹介コーナーみたいな企画があり、2曲歌わせてくれる ということでした。その日に備え、またまた猛練習が始まるのでした。・・・・・・・・つづく

金校新聞に掲載
金校新聞に掲載

第六章 「フロッギース」登場

 第13回HFJコンサートを終えると、いよいよ待望のラジオ出演が、せまってきました。
文化放送は、確か四ッ谷だったと思いますが、どうやってそこまで行ったかは、あまりよく覚えていませんが、電車で行ったのは、確かです。 そのあたりは、以前、飯鉢が、掲示板で触れていたように思います。
私の記憶は、ラジオ局での打ち合わせまで、 飛んでしまいます。その打ち合わせでハプニングがあったからです。
私たちは、演奏する曲を2曲とも、モダンフォークの曲を用意していたのですが、局側の要望で「女ひとり」を歌って欲しいと言ってきたのです。
実は、MG・4のレパ ートリーに「女ひとり」があったのです。デューク・エイセスが歌う、「日本のうた」というアルバムの中の1曲で純和 調の、モダン・フォークのコピーバンドが歌うような曲ではなかったのですが、メンバーの斉藤がやけに気にいっていて、どうしてもと言ってレパートリー化した曲でした。
ところが、この評判がすこぶる良く、聞いてくれる人たちは皆、「女ひとり」を絶賛し、中にはこの曲を聞いて涙を流した女の子までいたとか、いないとか、噂になるほどでした。

どうやら、局側の担当者は、このことを知っていて「女ひとり」を要望してきたようなんです。
しかたなく用意してきた 曲を1曲変更し、「女ひとり」を歌うことにしたのでした。

放送自体は、生放送だったので本人たちは、聞くことができず、録音することも、事前に考え付かなかったため、ラジオ出演したという証拠は、今ではどこを探してもありません。

翌日学校に行くとクラスの話題はもっぱら昨夜のラジオ出演でもちきりで、ちょっとしたスター扱いで、
嬉しさをかみ殺して平静を装うのが大変でした。

ラジオへの出演はMG・4の存在が学校中に知れわたるほどの効果がありました。何日か後、新聞部が発行している、金高新聞の取材があり、その月の金高新聞に写真入りで掲載されたのでした。

これによって生徒はもちろん、先生方まで我々に注目するという、嬉しくない状況まで生まれてしまう結果となってしまったのです。

ハマフォークのコンサートチケットも100枚から200枚と面白いように売れ、殆どクラス中の人が、見に来るといっても過言じゃないほどでした。
このことには本人たちも驚きを隠せず、廊下を歩いていても下級生の女の子たちが「あの人、MG・4の人よね。」
と小声でいい合っているのが、聞こえてくるほどでした。気分を良くした我々を、さらに練習に打ち込ませることになる出会いがすくそこに待っていたのです。

それは、現在のヤマハのポプコン「ポピュラーソングコンテスト」、当時の「ライト・ミュージック・コンテスト」の第一回目の優勝バンドの「フロッギーズ」というバンドを知ったことでした。
彼らは、東京のステューデント・フェスティバルというサークルに所属する、ブラフォースタイルのアマチュアバンドでモダンフォークのコピーを中心に「ブラフォー」はもちろん「キングストン・トリオ」から「MFQ」さらに日本民謡からアニメソングにオリジナルとバラエティーに富んだレパートリーを誇る、大学生のバンドでした。
ラジオから流れる「フロッギーズ」の歌声に聞き入り、彼らが歌う曲のどれもこれも素晴らしく、我々4人は、あっという間に「フロッギーズ」の虜になってしっまたのです。

何とか、生のステージが見たいと思っていたところにステューデント・フェスティバル主催の「フロッギーズ・リサイタル」が東京・大手町の今は無きサンケイホールで開かれるという情報を聞きつけ、早速、チケットを手に入れ、4人で見に行くことになったのです。単なるコンサートではなく、リサイタルとなれば、「フロッギーズ」のすべてが見られると、その日が待ちどうしくてたまりませんでした。
そんな私たちに、思わぬ朗報が、それは、飯鉢のクラスメイトで、I君いう男子がいて、お父さんがサンケイホールに勤めていて、話をしたら、内緒で裏から入れてもらえることになったのです。私たちは、当日、なかり早めの時間に会場に行くと、そのお父さんがこっちにおいでとこっそり中に入れてくれたのです。

そこは、まだ、観客は誰もいない客席で、何とあの「フロッギーズ」がリハーサルをしているところでした。まさに夢のような状態でした。本番のステージは、もちろん目を皿のようにして見ており、途中、ゲストに森山良子などが何曲か歌っていましたが、正直、早く終われと思うほどでした。
あこがれの「フロッギーズ」の生ステージをしかも、リハーサルから見ることができ、大満足の一日でした。
その日から、私たちのレパートリーは、「フロッギーズ」に侵されていったのです。ちなみに、「こきりこの歌」「相馬盆唄」「そこに山はあった」「嵐のあとに」「ブランディーワインブルース」「鉄腕アトム」等、「SING OUT」、「THIS LITTLE LIGHT」なども、本家のMFQやキングストントリオの、それではなく、「フロッギーズ」バージョンに切り替えて、演奏するようになっていったのです。      ・・・・つづく

第七章 Farewell MG・4

「フロッギーズ」を目指して、練習することによって、レパートリーもさらに増えてゆき、バンド活動にそこはかとない充実感を感じながら過ごす毎日と受験を控えた3年生であるという現実の狭間でこのままバンド活動をつづけることに戸惑いながらも、HFJコンサート他、他校への文化祭等出演と活動は、続くのでした。


そんな時、突然、我々4人は、 学校の生活指導の先生に呼び出されたのでした。
朝のホームルームの時間が終わるころ、担任の先生に「このあと○○先生のところに行ってください。」と言われ、何だろうと思いながら指定されたところに行くと、そこには、川上、斉藤、飯鉢も来ており、生活指導の先生との面談が始まったのです。

重苦しい雰囲気の中で、先生は尋問形式にいろいろなことを我々に質問してきました。
その殆どが、我々の校外活動についての、真偽を正すものであったとは記憶しておりますが、一つのことを除いてはあまりよく覚えていません。

その一つのことが傑作で今でもハッキリ覚えているのですが、それは「君たちブロマイド写真を作って、それにサインして売ってるんだってねえ?」という質問でした。

「ええ?そんな訳ねえだろう」
驚きというか、呆れて、思わず笑ってしまいました。

もちろん、そんなことある訳なく、後で考えるとたぶん当時HFJコンサートに出ると、パンフレットに出演バンドが、写真付で紹介されていたのと、チケットを皆で手分けして売っていたということが、間違って伝わったのでないかと、思われるのでした。


そんなことがあってか、やはり、3年生という立場では、バンド活動にもけじめをつけなければということで、その年の文化祭で一時休止することにしたのです。そこで我々は、悔いを残さないようにと、文化祭では目いっぱいやろうと、ある計画を立てるのでした。

通常、文化祭での軽音の催し物は、体育館でのコンサートと教室を使ったフリーライブの2通りなのですが、それだけでは他のバンドとの兼ね合いであまり多くの時間をとることができません。

そこで私たちは、そほかに、我々だけで当時出来たばかりの格技場(柔道と剣道専用の体育館)を借り切り、Farewell MG・4としてリサイタル形式のコンサートを開くことにしたのです。
その格技場は、金高では武道館と呼ばれており、教室4・5個分ほどの広さでコンサートには打って付けの場所でした。
柔道の畳を何枚か重ねてステージを作り、折りたたみ椅子を並べて客席を作り、軽音の仲間に協力してもらい武道館は立派なコンサート会場と化したのでした。
収容可能人数は200人前後で、計画したはいいがはたして見に来てくれるかどうか、かなり不安でしたが、蓋をあけてみると、思いのほかたくさんの人が集まってくれ、いよいよMG・4の高校生活最後のコンサートが始まるのでした。

興奮をおさえながら、1曲目、「牛追いの歌」、「SING OUT」とつづき、途中、「みんなで歌おうコーナー」、休憩を挟んで約2時間弱アンコールを含め全20曲を歌いきり満足感に包まれて最後のステージは、終わったのでした。
こうして、3年生最後の文化祭も、終わりに近づき、フィナーレで行なうキャンプファイヤーでの恒例のフォークダンスの輪の中に鼻の下をのばして、踊りまくる私たちがそこにいたのでした。


その後私たちは大学生になっての復活を約束し合い、受験に向かっての準備に取り掛かりました。余談になりますが、私のクラスでは、進学に向けての個人面談が行なわれ志望校その他を担任の先生と検討し合うのですが忘れもしませんが、私の番になって面談が始まると、いきなり先生が「村松君は、そのままプロになるんでしょうから大学はいいよね。」と冗談とも本気とも取れる真顔で、言ってきたのです。「いえ、一応、大学進学希望です。」とは、言ったものの、まともに話をする気になれず、すぐに面談を終えて、部屋を出てしまいました。
第六章でも少し触れましたが、それほど、我々MG・4の活動は、先生方に疎ましく思われていたようです。
その後は、面談にも応じず、独自で受験に臨み、そのせいではないでしょうが、2・3受けた大学は、見事に全部落ち、浪人が決定したのでした。ちなみに斉藤、飯鉢は、見事に合格、川上と私が暗黒の浪人生活へと入って行くのでした。                                   ・・・・・・・つづく

 

第八章 時代は変わる

 受験を優先し、バンド活動を休止するといえば、さすが受験生と感心されるところですが、現実は、そうでもなくその後もぼちぼちとバンド活動はつづいていたようで、その年の12月と浪人がきまったあとの6月の5周年記念コンサートまでは出演していたようです。

5周年記念コンサートにはシュリークスがゲスト出演し、初めての県立音楽堂でのコンサートで心配された動員数もほぼ満員となる盛況でした。

現実に活動を休止したのは、この後のようで 出演を予定してなかった12月のコンサートに急遽出演するまでの5ヶ月間だけだったということになります。

 

先に大学生になった斉藤と飯鉢は大学生活を満喫しており、斉藤はお城研究会なるサークルに入り全国のお城を見て回り、その特徴とか何かを調べたりとかちょっと変わったサークル活動をしており、会うとよくお城の話をしてくれました。
また、飯鉢は、ワンダーフォーゲル部に入り、山に夢中になり始めておりました。

「やっとの思いで頂上まで,登ったあと、そこから見える朝日は格別に素晴らしく、ものすごく感動するんだよ。」と目をまるくしてよく話していました。
 川上は、そんな中でも受験勉強に励んでいたと思われ、浪人後見事に中央大学・法学部に合格したのです。
私のほうは根っからいい加減で適当な日々をおくっておりましたが、それでも入れてくれる大学はあるもので,晴れて4人とも大学生となって、MG・4を再開させたのでした。

 復活後の最初のコンサートも県立音楽堂で。このときのゲストは赤い鳥とジローズでした。
このコンサートを境にして、我々も今までとは違いハマフォークを運営する側にまわり同期の稲見が会長となりそれをサポートして行くことになるのでした。

当時のハマフォークには、バンドとスタッフを合わると軽く100人は超える会員が在籍していたように思います。
それをまとめて動かしていくのはとても大変なことで、年3回のコンサートと春夏の合宿、その他、外郭団体との交流と運営部の人たちは、目まぐるしい忙しさだったように思われます。

毎週水曜日に今はもうなくなってしまいましたが、野毛のニューコマチという甘味喫茶の2階の一角を貸し切りにしてミーティングが行われていました。

いつから始まったかは、覚えていませんが、そのミーティングは、その後も代々引き続き行われ、ハマフォークが実質活動を停止するまで、ざっと10年以上は続いていたのではと思われます。

 そんな昔のことを思い出していたら、面白いことに気がつきました。

それは私が初めて運営部として活動に加わった頃ですが、その時の会長は稲見、副会長は金子、音楽担当は村松、美術は村上、あれ、今と同じだ。
何か運命的なものを感じずにはいられません。・・・ふと、そんなことを考えてしまいました。

 MG・4の活動もそこそこ順調で、コンサートではトリとして締めを任されることも度々ありました。
後輩たちの数も徐々に増え、MG・4も後輩たちの手本となるようなバンドになることが求められる立場となり改めて自分たちを見つめ直す時が来ていたのです。

その頃、世間では高石ともや岡林信康、吉田拓郎、と自分で詩を書き、曲を付け、歌うという、いわゆるシンガーソングライターが次々に出現し、あっという間に若者たちの心を掴んで離しませんでした。
 また、グループでは、五つの赤い風船、かぐや姫、オフ・コースと出現しハマフォークの中でも彼らの影響力は大きく、今までモダンフォーク一筋できたハマフォークが、大きな変革を余儀なくされることになるのでした。

今まで何の疑問ももたずに、モダンフォークを歌ってきたのは、その楽器とメロディーラインと、英語の歌詞のイントネーションがかもし出す音楽観に五感が反応し、心が受け入れるという感覚でとらえて、いいなと感じていたからなのですが、ここにきて歌そのものに主義主張が含まれ、歌い手の自己表現の手段として音楽を使う、という考え方が広まってきたのです。
このこと自体は、以前からなかったわけではなくピート・シーガー、ボブ・ディランやPPMなんかも どちらかといえば、その類いにはいるのではと思いますが、とにかく、ただ単純に音楽を楽しむにも何か気にかけていなければならない、というような変な風潮がはびこっていたように感じたものでした。

 そして、その余波は、我がMG・4にも押し寄せてくるのでした。

メンバーの斉藤が、歌というものをより深く考えるようになっていたのです。

以前 我々はこんな経験があったのですが、それは、いつだったか忘れましたが、ハマフォークの合宿にバンドで参加した時です。

宿舎の周りは、緑にあふれ、木立の中で新鮮な空気を吸いながら、気分よく練習をしていたときでした。

散歩道を何人かの外国人の方が歩いて来られ、我々を見つけて、ニコニコとフレンドリーに近くによってきて、楽しそうに歌をきいていたのですが、ある曲を歌ったとき、いままでの楽しそうな顔が一変し、険しい顔になりなにか英語で、ぺらぺらっと言いながら、その場を去っていったのでした。
その曲は、確か、MFQ「JordanRiver」だったと記憶 していますが、「Jordan River」には、宗教的に深い意味を持った歌詞が含まれていて、聞く人によっては不快感を与えかねないところがあるらしいということでした。
 その時も確か、斉藤が「英語の歌詞は怖いな。」って言ってたことを思い出しました。

そうなんです。その斉藤が、言い出したのです。

「俺、もう英語の歌は、歌いたくないんだ。」と、しかしMG・4から英語の歌をとったら、翼をとられた鳥と同じで、もう羽ばたくことは出来ません。
斉藤は、モダンフォークは、もういい、日本語の歌を歌いたいと主張してきたのです。

MG・4はバンド始まって以来の大問題をかかえてしまったのでした。
 他のメンバーはどうかというと、川上はあくまでモダンフォークにこだわり、私と飯鉢はその中間で、どちらかといえば、私は斉藤寄りで、飯鉢は川上寄りだったかな?・・・・・・・どうしよう。
                                                                                                                                             ・・・・・・・つづく

 

MG4解散コンサート
MG4解散コンサート

第九章 MG・4解散そして...

PART1

大きな問題をかかえてしまいましたが、メンバーが、不仲になった訳ではなく何とか話し合って、お互いの言い分を折衷してやっていこうということで話がまとまり、コンサートなどではそれぞれのやりたい曲を公平に歌うことにして乗り切ることにしたのでした。

 斉藤自身も全く英語の歌が嫌になった訳ではなく差障りのない曲であれば問題ないのですが、ただ、モダンフォークへの情熱は冷めてしまっていたようです。
斉藤の嗜好は、岡林信康、加川良、五つの赤い風船等に変わってゆき、MG・4としても岡林の歌を取り入れたり、Beatlesの曲を歌ったかと思えば その次の曲は「ブランディーワインブルース」だったりと、節操のないステージが、何回かありました。

  ハマフォーク 全体はどうだったかというと、確かに、オリジナルや日本語の歌を主にしてるバンドも増えてきましたが、相対的にはブラフォー、キングストン、PPMのコピーバンドの数のほうがおおく、モダンフォーク健在という感じでした。
そのころの自分はどうだったかというと、もちろんモダンフォークも歌いたかったし、吉田拓郎や五つの赤い風船等にも影響を受け、発表はしていませんでしたが、見よう見まねで自分で作詞、作曲をしたりしてひそかに楽しんでいました。
 そういえば、MG・4の晩年にコンサートで1曲だけ私の作ったオリジナル曲を歌ったことがあるんですけど、誰か覚えているかな~・・・・?

  MG・4としては、そんな状態が長続きする訳はなく、中途半端なまま続けるのではなくここらでけりをつけようと、メンバー全員の総意として解散することに決めたのでした。
MG・4の解散については親しい仲間たちも、当時の我々をみて時間の問題だと思っていたと思われ、ごく自然に受け止めてくれ、それだけでなくこれまでのハマフォークに対する功績?を評価してくれ「Farewell MG・4」と冠をつけた解散コンサートを開いてくれることになったのでした。
忘れもしない、(本当は、忘れていましたが、網代が作ってくれた年表をみて記憶を蘇らせてます。)
時は、1972年9月9日、会場はお馴染みの教育会館、足掛け5年に渡るMG・4のバンド活動の最後に悔いを残さないようにとコンサートに全精力をつぎ込むのでした。

  さあ、最後のコンサートの幕開けです。
開演と同時に、「牛追いの歌」、歌い終わったところで、司会・河内めぐみさんの登場、MG・4の紹介。
(河内さんの司会は、抜群で、まるで、プロのアナウンサーなみ、いや、それ以上で、過去の司会担当者の中では、群を抜いてNo.1でした。しかも美人。今、どうしていらっしゃるか、わかりませんが、できれば、お会いしたいで~す。)

 続いて「SING OUT/THIS LITTLE LIGHT」~前半は約20分のステージ、仲間のバンドの友情出演をはさんで休憩前に一人ずつソロにて登場、飯鉢の出番の時には、花束の代わりに一升瓶が、ずらりと10数本ステージ前に並び、さすが人望の厚い飯鉢ならではでした。

 後半がスタート、仲間のバンド出演最後のラブリーメンが終わり、いよいよ本当に最後のステージ。いささか緊張気味に「レット・ゲット・トゥギャザー」・・・・思い出の「グリーンバックダラー」・・・・「こきりこの歌」・・・・「鉄腕アトム」など、約30分のステージは時には笑いに溢れ、時にはしんみりとそして、本当に最後の一曲「ヨルダン川」で幕が下りたのでした。

PART2

この解散コンサート後、飯鉢は、大学にもどり、斉藤は稲見たちの「茶のみ友達」に時々、参加したりしていましたがそのうち姿を見せなくなり、川上は当時新人だった網代達「Singing Bells」を面倒みたりしていましたが、やはり、徐々に遠のいていってしまいました。
私だけがハマフォークに残り、新しいメンバーと「しま」を結成しバンド活動を続けたのでした。

 話はちょっとそれますが、ここで2人の男を紹介させていただきます。

MG・4時代に我々のファンだと公言し、何かと世話をしてくれた後輩が、一人おりました。
練習している所にもちょくちょくついて来て、時に雨が降ってきたりすれば、楽器が濡れると歌っている我々に傘をさしてくれたりと、それは甲斐甲斐しく世話をしてくれました。
私の家にもしょっちゅう来ていて家族とも親しくなり、ほとんど自由に出入りができるほどになっておりました。
MG・4の解散が決まった後にも私の家に来て、当時私が作っていた歌を聞かせろとせがみ、無理やり歌わせ、MGのあと二人でバンド組もうと、迫ったのです。

彼の情熱に絆された私は、もう一人大学の友人を誘って3人でバンドを組むことを承諾し、とりあえず練習を開始してしまったのです。

もうお判りでしょうが、前者がご存知、古文書の村上で、後者が斉藤隆君です。

 そして、こともあろうにMG・4解散コンサートの2ヶ月前のハマフォーク・ジュニア・コンサートに「しま」としてデビューしてしまったのです。

そのとこに関して、MGの他の3人からのコメントは特にありませんでしたが、あまり感心できる話では、ありませんね。
ちょっと反省してます。

その後MG・4は、ハマフォークの記念コンサート等に何回か出演したりしていましたが、それぞれの就職活動を期にほとんど会うこともなくなっていったのです。
私以外の3人は、ちゃんと4年で卒業し、飯鉢は、念願の「教師」に、斉藤は「広告代理店」に、川上は「Sデパート」にとそれぞれ就職が決まり、 社会人としてスタートをきっていきました。

 私はというと、大学を留年しさらに1年学生としてハマフォークを満喫しようと企んでいたのでした。

ほとんど会うことがなくなって何年か経ち、皆年頃となりよき伴侶をえて結婚。
それぞれの結婚式で顔を会わせ、昔の思い出話に花を咲かせているうちに誰からとなく、年に1度何処かで会おうよということになり、毎年1月1日の夜再会することを決めたのでした。

そして約束通り、翌年の1月1日から約30年間、その年に1度の4人だけのMG・4同窓会は、続いたのでした。

                                              ・・・・・・・つづく

最終章 復活ハマフォークジャンボリー

ハマフォークに残った私は、「しま」「パーティー」「フォーストロングウィンズ」と休む間もなく次から次とバンドを続ける機会を得て、その後10年以上ハマフォークに現役として在籍しておりましたが、その間にハマフォークも徐々に、世の音楽界のめまぐるしい変化の波に対応しきれず、観客動員もままならず、会員間の不協和音も出始めたりと次第に先細り、54回目のコンサートを最後に自然と休止してしまうことになってしまったのでした。

  この間、10数年間に渡りハマフォークのトップバンドの地位を維持し続けていた網代率いる「The Kingston Farms」は、ハマフォークが休止する以前から得意の渉外能力を発揮し、積極的に活動の場を求めて動いていたのでした。
その努力は、次第に実を結び、新宿「ウィッシュ・ボン」での毎月第3土曜日のフォークの日開催をはじめとして現在の「P.A.M.F」と発展してゆき、今なおモダンフォークの火を燃やし続けることに、大きな功績となっております。
ハマフォークが完全に休止したあとも、この網代たちの存在のおかげで我々の心の中からモダンフォークが消えてなくなるということだけは、避けることができたのでした。

 

  一方でハマフォークはというと、その後20数年間全く音沙汰なく、もはや過去のものとして皆の中では、単なる思い出としてのみの存在となっていたのでした。

MG・4の同窓会は当然その間も続いており、年に一度の再会では、まさに思い出話のオンパレードで、しかも毎年ほとんど、同じ内容の話で終始しておりました。
それでもその同窓会はとても楽しく、酒も進み、必ず誰かが酔いつぶれるという、毎回凝りもせず恐怖のワンパターンで繰り返されていたのでした。

そして、去年(2009年)の1月1日も当然のように同窓会は開かれたのです。

しかし、この年は川上が仕事の関係で参加できませんでした。川上の不参加の連絡が事前にあったので、代わりにという訳ではないのですが、ハマジャンの同期でもある稲見に声を掛けてみたところ、稲見は快く出席してくれたのです。

稲見との再会もほぼ30年ぶりということもあり、いつもに増して盛り上がり、日を改めて他の同期にも声を掛けてまた飲もうと約束をして、その日はお開きになりました。
さらに、この年はもうひとつ3日後の1月4日にBBQの還暦復活ライブが逗子で行われるという情報があり、どうしても見たくて斉藤をさそって逗子市さざなみホールに行ったのです。

  BBQの復活という出来事は、私にとっては特別な意味"をもっているのです。
そもそも BBQと出会ってなければ、もしかしたらMG・4も誕生してなかったかも知れないからです。
第1章でも触れましたが高1の時BBQのステージを見なかったら、たとえその後川上の誘いがあっても簡単にはついていかなかったと思うからです。

というのは、その頃私は中学のときからの友達と2人で(その友達というのは、かつて、ハマフォークで活躍していたバンド、夏チャオのメンバーの旧姓・加部知子の兄ですけど)バンドの真似事のようなことをしており、学校は違いましたが時々あって一緒に歌ったりしていたからです。
BBQとの再会もほぼ30年ぶり、この年はたった4・5日の間に30年ぶりの再会が2回もあり普段の年初めとは、あきらかに違っていました。

そして、8月には、ハマフォーク復活の前兆となる飲み会が、根岸の「ベア・カフェ」で開かれたのでした。
その日の参加者は、稲見、金子、川上、村松、斉藤、飯鉢、かずら、斉藤隆・愛子夫妻、網代・洋子夫妻、そしてBBQのメンバーでした。

  そしてその翌日、かずらの手によって、運命の「ハマフォークジャンボリー掲示板」が立ち上がったのです。

おかげでMG・4も何十年かぶりに、4人そろって歌うことができました。
今、そんな4人の関係を改めて考えてみるととてもおもしろく、前にも触れたように、実際バンドを組む以前は全く友達でも何でもなく、かといって楽器や歌が上手いから集められた訳でもなく、ただ川上がバンドをやりたいという理由だけで、やみくもに声を掛け、たまたま集まったのがこの4人だったのです。

高校時代のクラスも全員バラバラで、MG・4として活動しているとき以外は、遊び友達も皆、個々に別々におり、MG・4の4人でどこかに 遊びに行ったりした記憶は殆どありません。共通の話題は、MG・4に関わること以外には、女の子の話くらい?かな。そんな付かず、離れずの関係だからこそ、30年間も年に1回しか会わないでいられたのかなとも思います。

だからといって、4人の人間関係が希薄かというと決してそんなことはなく、それぞれがお互いを尊敬し、認め合う掛替えのない友達であることは言うまでもありません。

4人でMG・4として過ごした期間は、60年近くなる我々の人生の中では、たったの5年間ではあるけれども我々にとっては、何物にも変え難い決して忘れることのない5年間、この関係を保っていきたいと思っております。なのです。

一口に友達といっても、いろいろな形があると思いますがMG・4の4人の関係は、私は理想的な関係だと思っているし、今日までこの関係が保てたことを嬉しく思うと共にこれからも、一生この関係を保っていきたいと思っております。

そのためには、皆が健康であることが、絶対の条件です。

みんな元気で長生きしてくれることを心から願います。
そして、これからも時々、集まって「MG・4」を楽しみたいと思っています。

川上、飯鉢、斉藤、どうぞ、よろしくお願い致します。

            

          では、この辺で「MG・4物語」を完結とさせていただきます。

                          ありがとうございました。

 

MG4物語/番外編  by Y.SAITO

  今でも思う事

  
 

横浜市磯子区馬場町・・・私が生まれ小学4年まで育った町。
山を駆け上がるとそこには「アメリカ」在日米軍が住む「ハウス」があった。
舗装された広い道・手入れされた芝生の敷地に、塀や垣根のない平屋の「ハウス」。
バスケットコートやローラースケートのできる緑溢れる公園があった。
金網越しに垣間見える「アメリカ」に勝敗の違いを色濃く感じ過ごした根岸。
根岸小5年に磯子区の外れ杉田に引越し、中学に進学するまで埋め立てされ変わり行く磯子の海辺を見ながら森・屏風ヶ浦の松林の間を縫うように走る路面電車の横浜市電に乗り、八幡橋から聖天橋まで・杉田商店街を抜け京急線を越え家までの長く遠い通学。

中学は近くの市立浜中学へ進学するが根岸小から入学する友も無く、たまたま近くに住む同じ歳のS君と知り合い共に満開に咲く桜の校門をくぐり、中学生生活をスタートさせた。
部活は、何もわからず、知らずバレーボール部。
浜中バレー部は、市内でも弘明寺の南中との双璧で強豪だった。練習も厳しくきつく、毎日真っ暗になるまで続き怖い先輩達もいた。
特に其の先輩は、真っ白いスニーカーにスタジアムジャンパー、雑誌「メンクラ」から抜け出た様なアイビールックの身体のごつい色黒の先輩、名前は、確かコバ・・・!!!?。(怖かった)

中学2年の頃から3歳上の兄が緑ヶ丘のブラスバンド部でクラリネットを吹いていたその影響で音楽にめざめ、きついバレー部をなんとか退部し浜中ブラスバンド部に転部。
音楽室の奥の部室、充満するかび臭い楽譜の臭いや、研磨剤・オイルの香り。
楽器は、錆びたトロンバーン。    でも嬉しくて感動した。
しばらくして親に頼み藤棚商店街でビニール袋にくるまり吊るしで売っていた¥4,000の古賀ギターを買ってもらい練習し始めたが、兄弟管楽器だったので、ジャズ(スイング・デキシー・モダン)をよく聴いていた。
(ちなみに人生で初めて買ったレコードは、ローリング・ストーンズの「サティスファクション」のドーナツ盤。)
3年生の頃の浜中ブラバンには、ブルージンズ~カップス~バークレーを卒業しプロになったミッキーY君やビッグバンドにいった佐藤テッチャン後輩には、後に知る事になる飛山さんの弟も在籍していた。
やがて進学の時期、高校受験の為に新杉田にある学習塾にS君と通い始め其の塾で、
(てなもんや三度笠の白木みのる)に似た誰にでも面倒見の良い、賢そうな同じ浜中の同窓「川上法男」ちょっととぼけた悪ガキK君と出会う。

(大親友のS君は、川上・K君とは杉田小からの友人で、私の実家のそばに結婚後も住んでいたのですが、若くして幼い子と夫人と年老いた母親を残し亡くなってしまったのです)

中学の校舎で偶然K君にあうといつもその脇に少し茶髪の髪を真ん中から分け学生服をラフに着こなす東京の臭いのするトッポイ男がいた。「村松利雄」です。

進学は、同級生や先輩も沢山入っている横浜市立金沢高校(金高)に決まり、部活も先輩がブラバンに手配してあり、今度は、少し錆びた・・・・・トロンバーン。
当時の金高には、校舎の中庭にブラバンの練習小屋が在り、そばの藤棚の下に石のベンチがあった。この石のベンチは金高生の出会いと別れを数多く見ていた。

そのベンチに行くとモサットとした身体のごつそうな男がその短い指でテナーサックスを一生懸命練習していた「飯鉢公朗」。

飯鉢は、地元の小学校から進学してきたので友達も多くクラスの人気者だった。(力があり柔道が強かった)

其のうち軽音楽同好会の存在を知り顔見知りの川上や飯鉢がなんかフォークバンド組んで練習しているのを知るがブラバンの練習が無い日は、仲間達とのサッカーに汗流す毎日だった。・・・・

そんなこんなで或る日、川上が「一緒にバンドやらなか・・?」と誘ってきたが、ハッキリ断ることもできずにいたが・・・・いつの日からか「川上・飯鉢・あの村松・S君+私」バンドメンバーになっていた。それからの事は、村松作MG物語の通り4人でステージに立っていた。
そんな或る日、いつもの様に練習しているとアイビールックの色黒のごついあの先輩、
名前は確か、コバヤシ・・・・!!!!。
「ヤバイ・・逃げよう?でもどうして??」が音楽室に入ってきた。
そしてMGの練習をじーと見て「斉藤!ギターは、こうやって弾くんだよ!」とやさしく丁寧に教えてくれた。
そうなんです、あのラブリーメンの小林直志さんだったのです。先輩おの時は、有難う御座いました。
あの・・・な先輩にこんな繊細な面があるとは、人は・・・わからないものです。ラブリーメンと一緒に豊島園に出れたのも貴重な体験でしたが解散へのカウントダウンは始まっていた。
今でも思うが、あの時あの言葉を言わなければ「解散」は無かったのか・・・
その後の人生違っていたのか・・。もっとイヤな別れ方をして4人で会う事も、酒を飲む事も、唄う機会も無く[MG4]は、各自の胸の中に残像として残るだけだったのか?解散して良かったのか・・?と

数年前からMFQやブラフォー・キングストンのCDを収集し始めた。
最近やっとモダンフォークの良さが少しわかり始めた様な気がする。

我等「MG4]きっと長い付合いになるんだろうなーーーーあ・・・・・END.